溢れ
よし。
自分の気持ちに正直になろう。
気持ちは固まった。
この次に何が起こるかなんて分からないけれど。
言わなければきっと、後悔する。
これから毎日自分の気持ちを隠して彼と一緒に暮らすことはおそらく不可能だ。
それなのに、いざ彼を見つめて言葉を放とうとすると、決心が揺らぐ。
恥ずかしさと、やっぱり怖さが、私の口を塞ぐ。
何か言いたげなものの一向に言葉を発しない私に、クロの視線が集中しているのが分かって余計に恥ずかしくなる。
喉元まできているのに。
「言いたいことがあるんやけど、難しくて。」
ぐぬぬ、と葛藤しながらなんとか言い訳をする。
彼は私の右手も捕まえて、
「分かった。いつまででも待つよ。急がなくていい。」
そんなことを言うから。
もっと、近づきたい。触れていたい。
この気持ちに名前をつけたい。
そんな気持ちばかりが大きくなってしまって。
自分でも制御ができなくて。
わずかに働いた理性で逃げたくなるのに、両手が捕われていてそれも叶わない。
「一回だけ、ハグしてもいい?」
やっと振り絞った言葉は日本語だ。
伝えたいくせに。
伝わるのが怖い。
こわい。
この気持ちを、なかったことにしないといけない未来が待っていたら。
こんなに膨らんだ想いはもう簡単には消えてくれそうにない。
「一回?」
なんとか聞き取れたのはその単語だったようで、足りない情報を求めるようにクロは首を傾げる。
「なんて言うんやっけな、」
なんて白々しくとぼける私。
目の前の相手によく思われたくて、最高にかっこ悪くなる。
こんな感覚はいつぶりだろうか。
つい最近までは、自分とは程遠い存在だと思っていたのに。
その始まりはあっけなくて。いつの間にこんなに大きくなっていたのだろう。
「一回だけ、ハグ、してもいい?」
時間をかけて、なんとか途切れ途切れに言うのが精一杯だった。
「たったの一回だけ?」
握られた両手のせいで、私の緊張はお見通しだったのかもしれない。
目尻を下げて柔らかく笑うクロの胸に
「後のことは後で考えるから、まずは一回」
と体を預けた。
心が穏やかになるような、優しい温度を感じた。
私をなだめるかのように背中を撫でていた手が、今度は髪に触れる。
「ほんま好きよな私の髪」
「うん、好き。すっごく柔らかくて綺麗。」
もう、あれこれ考えなくても良いかな。
何とも思っていないふりをしなくても、もう良いかな。
もっと、近づきたい。
体を離して彼の目を見つめると、彼の目も物足りないように見えて。
どちらからともなくキスをした。
もう一回。
もう一回が連なって、気づけば何度も重ねていた。
キスをするたびに空いていた穴が塞がっていくような。
暗闇に光が照らされるような。
不思議な感覚だった。
きっと私のこれまでの人生は、この瞬間のためにあったのだ。
満たされないと思っていた空白は、クロのためにあったのかもしれない。
それくらい、心が満たされた。
その時に初めて、クロは私に「綺麗だ」と言った。
これまでも褒め言葉を積極的に使う人ではあったけれど、直接的な表現は初めてだった。
彼の中の何かも、この瞬間に変わったのだと分かった。
私が殻にこもっていたように、彼も構えていたものがあったのかもしれない。
今まで堪えていたものが溢れ出したかのように、何度もキスをして。
気がつけば、朝がもうすぐそこまで来ていた。
※「」=スペイン語
「」=日本語
で会話をしています。