キッチンでの会話
「胡椒?」
フライパンの中身を除いて、クロが問いかけてきた。
今日までのひき肉を消費すべく、ピーマンならぬパプリカの肉詰めを作っているところだった。
匂いで胡椒を使ったことに気づいたらしい。
「そうやよ。肉詰め、知らん?スペインにはないんかな。」
首を横に振っているところを見ると、見慣れない料理らしい。
会話が止まって、少しの沈黙が流れる。
朝からなんとなく感じていた、錆びた車輪のような滑りの悪い、重みを帯びた空気。
ぎこちなくて、居心地も悪い。
打破するなら、今しかない。
「昨日の私は、感情的すぎた。ごめん。ちゃんと冷静に話したいと思ってるから。」
つっかえていたものが取れたように、胸にのしかかっていた重みがすっと軽くなった。
「うん、分かってるよ。俺も、突然話してごめん。でも、話さないといけないと思って。」
「うん。」
あの時クロが切り出さなくても、どこかで私が聞いていた。
彼が言っていた通り、少しでも早く時が訪れて良かったのだ。
「昨日お母さんと学校の話したって言ってたけど、どんな話したんか聞いてもいい?」
「学校を4年通わずにやめるっていう選択肢について話したよ。後は家族の話とか、他にもいろいろ。」
「お母さんはなんて?」
「心配してたよ。というより、不安がってた。もし学校を行かずに日本に行ったとして、良い就職先が見つかるのかとか、安定して暮らせるのかとか。」
母親として、息子を心配するのは当然だろう。
私がスペインに行くと言った時、私の母親も同じように心配してくれていた。
「君は、大学に行ったの?」
「なんで?」
「日本は移民に厳しいんだ。長期滞在しようと思うと、それ相応の肩書きがないと認めてもらえない。俺はまだそれを持っていないから。そのために学校に通い始めたわけだけど。勉強したくて入ったわけじゃないから、必要ないならやめたいって考えてしまってる。」
「ビザそんなに厳しいんや。知らんかった…私がスペインのビザ取るときは、そんな証明いらんかったけどなあ。」
「それはそうだよ。日本のパスポートは特殊だ。かなり優遇される。」
なるほど。
少し分かったかもしれない。
彼の置かれている状況が。
ビザにそんな条件があるなんて知らなかった。
私は日本人として日本で生まれて、ほぼ無条件に日本のパスポートを持っている。
でもそれが、世界でどれだけ有利にはたらくのか改めて思い知らされた。
同じ『海外に移住』といっても、そのために必要な労力が違うのだ。
彼にとって有利な条件でビザを取得できた私が、彼の苦悩を100%理解することは難しいだろう。
あくまで私は自分の立場から、彼の立場を想像することしかできない。
「でも、結婚してしまえば話は簡単だ。肩書きも何にもいらない。婚約届けを役所に出すだけで、日本に住むことも、日本で働くことも苦労する必要がない。だって、最強のビザを持っているわけだからね。」
以前にも何度か結婚、というワードをクロの口から聞くことがあった。
夢を叶えるために1番簡単で、あっという間に全てが解決する手段。
それが、結婚なのだ。
※「」=スペイン語
「」=日本語
で会話をしています。